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 子供の頃は
動作が何でもゆっくりで、いつも母にせかされていました。
イケメンで神童と呼ばれる賢い長兄と、面白くて人気者だった次兄に劣等感をいっぱい抱いて育ちました。
中学生の時、大人が嫌いだったり、気持ちがしらけていたりしていましたが、ベトナムとカンボジアでの中越戦争の記事を新聞で読み、大変な衝撃を受けました。
人が敵人を畑に首の下まで自分で掘らせた穴に埋めて、それから首をはねてそのまま放置し、畑の肥やしにしたとありました。また捕虜の掌に穴を開け、それに有刺鉄線を通し、又別の捕虜の手に繋げて、捕虜を数珠つなぎにして川に連れて行き、溺れさせたとありました。死んだ人々の数は莫大でした。
「なんとむごい!・・・こんな事、人間が同じ人間に出来るのだろうか!?こんな事は絶対にあってはならない!」と強く思いました。

 高校生の時
自分自身が尊敬できる、人間的に立派な人になることが夢でした。進路を決める頃になって、音楽以外に大して取り柄のない私は「音楽で人の心を平和へと変える働きをしよう!」と心に決めました。
出来が良くなかった私がなぜか立派な音楽大学に入ってしまって、周りは天才ばかり。寝る・食べる・バイトをする・トイレに行く以外は、朝から夜中まで音楽のために生きる様な「音楽馬鹿」と言われる人になっていきました。同級生の多くが今は立派な音楽家になっています。
その頃小澤征爾さんの指揮で演奏会に出られるようになったことが最高に幸せでした。
音楽はあまりに素晴らしくて、「これこそが真に世界を平和にする物だ!」と確信して、どんな犠牲もいとわない者となっていました。
 ところが
アルバイトと勉強で多忙を極めながら、多くの人々と音楽を作り上げている時、自分の心に解決できない「平和にならない心」があることに気が付きました。
私はその頃家族みな仲良くて、良い友達もいてくれて、平和に生きているつもりでしたが、気が付くと、自分を無視した人のこと、親切にしたのに悪いことをして返した人のこと、優しくしたのに分かって貰えなかった人のこと等々が、心に蘇えってきて許せなくなり心の中でもがき苦しんでいたのです。
戦争のない平和な世界を作り上げるために懸命にやって来たのに、自分の心の中の戦争を止めることができません。人からは「良い人だ」とか「徳がある」とかオセイジでも言われていたため、誰にも相談できず、
「その内、大丈夫になるよ」と自分に言い聞かせて生きていましたが、苦しみは積もり積もって
遂に「自分の心さえ本当の平和を守れないのだから、生きていても意味がない・・・」と死ぬことさえ考えるようになって行きました。
 元々私の母は
浄土真宗の寺の娘で、孫娘の私は小さいときからお寺の中で人々の信仰や生き様を見てきましたが、
その頃には「そこには神様がいない」と確信していました。ですから死を考えたとき仏教に求めても何も得られないと思いました。
それで、優しかった幼稚園の先生がクリスチャンだったこと、駅でもらったギデオン協会というところの日英対訳の聖書があることを思い出しました。
「・・・でもなんか、読むの、恐いな・・・」と思いながら、寺の娘である母に「ねぇ、聖書って読んでみようと思うんだけど、どう思う?」と聞いてみると思いがけず
「聖書は世界のベストセラーだから、一度は読まないとダメよ!」という返事が返ってきました。父にも聞くと「リンカーンやルーズベルト、ゲーテやニュートン、その他『世界の偉人』と呼ばれる人は必ず聖書を読んでいるそうだぞ。お父さんも読んだことがある!」と言うので、それに勇気を得て読んでみることにしました。
読んでみると恐いことなど1つもなく、分からない言葉はあっても面白いことが必ず1つは見つかり、
「全部読み終わってから、答えがなければその時死ねばいい」と思って全部読むことにしました。
読んでくださって、どうもありがとう!
『主ご自身がこう言われるのです。
「わたしは決してあなたを離れず、また、あなたを捨てない。」』(ヘブル13:5)
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 半年も経った頃
東京の地下鉄車内の中で座って読んでいた時、ドキーッとした言葉がありました。
そのとき、イエスは言われた、「父よ、彼らをおゆるしください。彼らは何をしているのか、わからずにいるのです」。(ルカによる福音書23章34節)]
多くの人々のために良いことばかりをしたキリストが、何万という支持者がいたにも関わらず、むごい十字架刑になったところでした。マザー・テレサの姿が思い浮かびました。
私は人がいっぱいいるのに涙が流れて止めることが出来ず、困りながら電車を降りました。
涙は少しして止まりましたが「なぜ涙が止まらなかったのか調べなくちゃ。どこか良い教会を探して聞きに行ってみよう」そう決心してアルバイトに向かいました。
 それからもう25年
人間ですから苦しいこと悲しいこともいっぱいありましたが、神様には一度も裏切られたことがありません。
不思議なことですが、心から祈れば必ず聞いてくださいます。どんな時も勇気や力が与えられ、努力が実ります。苦しみも喜びに変えられるのです。神様は愛であり真実な方ですから決して嘘をつくことがないと、経験を通して教えられて来ました。もし、あなたがまだクリスチャンでなかったら、あなたもイェス・キリストを自分の救い主と信じてみませんか?
本屋さんで売っている正しい聖書を正しく教えてくれる教会にぜひ行ってみてください。必ず祝福がありますヨ!信じなくても決して強要されることはありません。信仰は個人的、自由で自発的なものですから。
(でも残念ですけど、世界中でキリスト教の異端と言われている「エホバの証人」「モルモン教」「統一協会」には注意してくださいネ!!)

最後まで読んでくださってどうもありがとう!あなたにきっと神様の祝福がありますように!!
 「それはね」
・・・聖書のいろいろな箇所を開いて、事実を大変温かく分かりやすく教えてくれました。
「あなたが、あなたの生まれ持つ罪を神に赦されて、天国に行けるようになるために、あなたの代わりに罰を受けてくださったのです。」ええーっ!衝撃でした。私のためだったなんて。「な、何で、なんでー?」
「それが、神様の愛で、世界中で信じられている理由です。」
不安がいっぱいでした。家族や親族は何と言うだろう。いろんな思いが駆け巡りました。「でも、もし神様がいて導いてくれたのなら、真心から答えなきゃいけない」と純粋に考えました。今考えても、その時、勇気を出して信じてみることにして本当に良かったと思っています。
その時から、人生が180度変わりました。見る物すべてが明るく美しくなった感じがしました。
以前は人を憎んだり恨んだり、したくないのにしてしまう自分が苦しくてたまりませんでしたが、信じてからは恨む代わりに愛する気持ちを持てるようになり、憎む代わりにその人の幸せを本心から祈り、その人を理解し愛せるように変えられました。何と楽になったことでしょう!
誰にも言えないことも、生きていて真実な神様に祈って、委ねることができるようになりました。
 アンサンブルをしていた仲間で
以前冷たかった人が、教会に行き始めた1年前から急に良い人になって、自作のクリスマスカードをくれたことを思い出し、その教会に行ってみることにしました。が、やはり「なんか・・・恐いな、どうしよう」と思っている内に時間がどんどん過ぎて夕方になってしまい、一大奮起してやっと急いで行ってみました。
教会はカトリック教会しか知らなかった私は、その教会の温かく優しい雰囲気に驚きましたが、もう始まっていたメッセージはほとんど分かりませんでした。
夕拝という集会が終わった時「誰に質問したら、こんな疑問に面倒くさがらずに答えてくれるかしら?」と思っていたら、あのアンサンブルの友人が神学生という女の人と直ぐに挨拶に来てくれました。
その時、不躾ではありますが率直にありとあらゆる質問をし、1時間ぐらい話しを聞いてもらった後、あの
“涙が止まらなかった時”のことを質問しました。
「イェス・キリストは立派な方なのに、なぜ、十字架で死ななければならなかったのですか?」

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